東日本大震災の記録 回顧録 2
こんばんは。
平常心で通常運転の山姥です。
今朝はゴミの日だったので、薄明るくなるのを待ってから捨てに行き、それから寝ました。
両手にでっかい袋を持っていたので、雨の中、傘もささずに早足でササっと。
その時は小降りという程度だったのに、9時頃起きたら外は大荒れになってました。
三寒四温ももう終わりかと思ってましたが、今は雪に変わっています。
飛行機雲を撮った日とは大違いです。
と書いているうちに、またうるさい雨音に変わりました。
どうせなら雪の方がいいです。
うるさくないので。
あの時は私はベッドで休んでいて、ただ事ではない揺れで起き上がったものの、そのまま座っているのがやっとで、動くことすらできませんでした。
しかも長い。
強さを保ったまま2分近く揺れ続け、終わる気配がありません。
絶対家が崩れると思いました。
後で市のホームページを見てみたら、被害があったのはこの近所だけだったようです。
大昔は川が流れていた所で、地域全体が湿地帯だったような場所です。
私が高校生の時に引っ越してきた地なので、後から知ったんですけどね。
私の部屋は2階にあり、長い揺れがおさまってから階下に行ったのですが、もう酷い有様で。
私以外の家族3人はちょうどダイニングキッチンの辺りにいて、母が座った椅子ごと後ろに倒れそうになったのを兄弟が押さえ、同時に倒れそうになった冷蔵庫も押さえ、父は食器棚の扉を押さえていたようです。
中は滅茶苦茶に崩れて割れたりしても、外に飛び出してこないようにと。
それでもどの部屋も滅茶苦茶です。
大きな仏壇は仏間の中央まで転がり、先祖の写真も落ちていました。
外に出ていたガラスものや陶磁器がほぼ割れたため、スリッパなしでは歩けません。
意外な所に破片があったり、一番の恐怖は画びょうです。
そんなに使っていた覚えはないのに、気がつくとスリッパの裏に画びょうが2つ3つ刺さっているんですよ。
その現象は数日続きました。
とりあえず母以外の3人で家の中を歩ける状態にしようとしました。
夕方が迫り、停電下では急がなければなりません。ほうきなどで割れた物などを部屋の隅に集めます。
それでも歩くたびにジャリジャリと音がしていました。
割れ物ばかりでなく、土のような細かい砂利のような…おそらく家の一部だった物でしょう。
母は極度の不安状態に陥り、かかりつけの個人病院に家族がつれて行きましたが、案の定閉まっていたようです。
当時、携帯電話を持っていたのは兄弟だけで、しかもワンセグなどの機能のない古いタイプでした。
ラジオをつけると早速津波の情報。
でもじっくり聞いている暇はありません。
暗くなり始め、焦って反射式ストープを出してきたり、明かり代わりのろうそくや懐中電灯を用意し、電子ジャーのご飯はすべておにぎりにしました。
それも丸くではなく、平べったい四角にして。
冷たくなってもストーブの上に置いて、温めたり焼いたりするためです。
幸い、私が休む前にブリ大根を作っておいた土鍋は無事で、鍋用のガスコンロで温めて、その晩の夕食は温かいものを家族に食べさせることができました。
今日のために撮影した画像だけ載せます。
一緒に祈ってくれたふくろうです。
わかりづらいですが、中に子ふくろうがいるんですよ。
実物でも、どの角度から見ても見えにくいのですが、中で白く反射してるのが子ふくろうの左目です。
尻切れトンボでごめんなさい。
仕事頑張ります。
それではまた。