毎日、自分に言い聞かせるようにブログを書いているが、やりたいことがわかってくると、自然に焦りも湧いてくる。
焦ってもどうしようもない。
焦ってもできないものはできない。
焦っても無駄だから焦らなくていい。
わかり切っているのに、気がつくと焦燥感に駆り立てられ、いら立ちを抑えられなくなっているのだ。
何故か。
答えは単純かもしれない。
自分で思っているほど、私はまだ自分自身の境遇を受け入れられてはいないのだ。
言うのは容易いが、なんと難しいことだろう。
そのことに思い至り、今朝から心中があまり穏やかではない。
焦りの原因、外因としては、自由に動けないことが第一に挙げられる。
絶望してはいないが、何か思いついても咄嗟に動けない。
当然過ぎる葛藤が、日に何度も心の中を過ぎるのだ。
苦しいけれど、過ぎてしまえば、どの瞬間も愛しく感じられる。
矛盾した感情が常に同居していて、行ったり来たりを繰り返している状態である。
でも、そんな自分を特別だとは思っていない。
多少ならずとも、葛藤は誰しもが抱えながら生きているものだからだ。
それほど意識していなくても、折り合いをつけながら、毎日を過ごしているのではないだろうか。
この心の動きは、生きる上で必要なものだと感じる。
焦る気持ちが湧いてきては、抑えて心を穏やかにする。
それを幾度も繰り返し、私は自分を保っているのだ。
だから、穏やかな毎日を愛しいと感じるといった、最近の己の変化も嘘ではない。
何か自己弁護のようであるが、頭の中を整理すると、そういうことになる。
その結果のひとつとして、ブログを再開できたのだから間違いない。
自我を取り戻しつつあるのだ。
身体は自由にならずとも、自我は着実に根づき始めている。
自我など一層のこと、感じていない方が楽だった。
でも、自分の人生というものを意識する時、自我は根本になくてはならないものでもある。
まだまだ脆弱だと感じる己の自我。
この歳になって、育てなくてはならないとは。
ブログも似たようなことを毎日書いていると思われるかもしれないが、何卒ご容赦いただきたい。
私はこうして必死に頭の中を整理しているのだ。
今日は特に、心を穏やかにするために必要だった。
今はおかげさまで、だいぶ穏やかになった。
心のリハビリと称しているが、どうなれば終了なのか、実のところ、自分でもわかっていない。
終わりなどないのかもしれない。
自分のことなのに、頼りない結論で申し訳ない限り。
今回はここまでにしよう。
それではまた。