悪化する鬱(うつ)の一方で…自分の顔がわからない
これでもか!っていうほどの「ずっどーん」に見舞われている。
うつ、鬱、ウツ……うつである。
何なのだ、これは?
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目覚めた時から強めの頭痛
気分がどうだったかなど憶えてもいない。
重い、しんどい。
うつの症状がまだまだ隠れていそうな気配。
こいつら、みんな出てくるつもりか?
勘弁。
面倒見切れないからな。
現実逃避もさっぱり現実逃避にならない。
かといって「現実」がどれかもわからない。
いまだに認識できない自分の顔。
そういえば数日前から気づいたことがある。
私はブログ巡りなどをする際に、逆手にした左手の掌に顎を乗せたポーズをとることが多い。
肘は膝の上。
なんとかうまく想像していただきたい。
気づいたのは「顔、小さくなった?」という些細なことだ。
今では一日三食ちゃんと食べている。
痩せるはずはない。
要は左手と、顔の左半分の感覚が正常になったためにそう感じたのである。
あ、ちょっと待て……耳も聴覚異常は左ではないか!
耳ほどはっきりした症状ではないが、左手と、首から上の左半分に違和感を覚え始めたのは30代後半。
ネットで調べたら循環器系や脳の血管に異常がある場合に出やすい症状らしく、なるほどね、と思っただけで放っておいた。
それが、うつ病治療の副産物的効果であろうか、感覚が正常になったのである。
わかりやすく言うと、今まではむくんだ左手で、むくんだ左頬を触っているような感覚だったのだ。
わかりにくい?
なら手袋をした手でマスクをした頬を触る感触でもいい。
本当はかなり違うがその程度の妥協はしよう。
問題はだ、うつ病治療で改善がみられる身体の症状は、実は心因性のものであった可能性が高いということだ。
不協和音しかり、左手の感触しかり。
他にも出てくる可能性がある。
決して顔が小さくなったわけではない。
私は元々顔が小さいのだ。
でもまだ自分の顔がわからない。
家族や他人の顔はわかるので生活に支障はないけれど、やはり「自分」を疎かにしている何よりの証ではないだろうか。
鏡で見ても「ふーん…」で終わり、目を離すともう忘れている。
うつ飽きた。
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昨日と4日前に撮影した「今日の画像」
何かの実。(後日調べたところ、ナンテンの実というのが有力)
ちゃんと名前を調べてから載せるつもりだったけど、しんどくなった。
すまぬ。
本当は左の一番手前の実を中心に撮ったのに、ボケていたので構図を変更。
これはこれで画になってるよね。
こうして見ると美しいもんだよね。
結構大きめの実でね、カラスやヒヨドリが好きそうな感じ?
あ、そういえば最近ヒヨドリを見ていないし、鳴き声も聞いていない。
冬を一緒に過ごしてくれる数少ない野鳥の一種なのに、どこ行っちゃったんだろう。
秋までは声が聞こえてたから近くにいるとは思うんだけど……寂しいではないか。
この実を食べに来てくれたまえ!
と思ったが、うちにはあの猫ちゃんがしばしば現れるのを忘れていた。
う~ん、共存はなかなか難しい問題である。
また野鳥の話で長くなってしまった。
次はこれを見て欲しい。
これぞ躍動感に満ちた初冬の雲だ!
同じ日に撮影したとはいえ、昨日載せた雲とは全然違う。
おそらく数分の差であろうが、この疾走感と爽快感はいかがか。
流れが速く、すぐ形が変わってしまうのも特徴である。
ほらね、こんな感じに。
いつの季節も二度と同じ姿を見せない雲たち。
本当に空は見ていて飽きないものである。
そして4日前に撮ったのはいいが、たくさん撮り過ぎてチェックさえ忘れていた月。
まだ明るいうちに上ってきた薄ーい月である。
わざわざ載せるほどの出来ではないが、あの破壊的構図の月を載せたままではシャクなので、わざわざ載せてみた。
自己満足である。
あー疲れた。
でも画像を撮影している時、パソコンで編集・選択をしている時、ブログに載せて語っている時、確実に自分が抱える問題を忘れていられる。
特に現実が苦痛であるほど、少しでもその現実から離れる瞬間が必要で、人は誰しも、無意識にでもそんな時間を持てるようにできているのではないだろうか。
それが上手にできず、常に現実の苦痛に苛まれている人は、ひたすら息苦しさに耐えつつ追い込まれてしまうのだろう。
「現実逃避」という言葉は後ろ向きにしか聞こえないけど、元から後ろ向きな私は前向きにその言葉を使う。
実生活とかけ離れた内容ならともかく、私のブログは一応「闘病記」である。
書くという作業によって客観的視点の現実を己に突きつけ、同時に現実逃避も行える不思議な充実感に満ちている。そして再生させる力も秘めているのだ。
ちょっと最後に語ってしまった。
フフフフフ……次回こそは復活した私でお目にかかろう。
まだキャラまでが不安定である。
それではまた。
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