昨日より数段酷い、泥に埋められたようなうつの感覚。
これが私の本当の精神状態だったようだ。
鬱病治療を初めて1ヵ月余り。
やっと表に出てきた。
自分がわかり始めた。
痛烈で壮絶な鬱の自覚に耐えられず、日中は眠くもないのに横になった。
「意欲がない」状態も今ならよくわかる。
総合すると、生きようとする意欲がないということだ。
死ぬつもりはないが、毎日、これが最後だと思って記録していこうと思う。
能天気にふざけながらでも、思いをしっかり残していこう。
提言はまだまだずっと先にしたかったが、結論だけ記しておく。
「セルフネグレクトはたくさんある『鬱病』の種類の1つ、或いは『鬱病』の症状と位置付けるべきである」
今はまだ根拠や理論を披露する力はない。
そこに向かって自ら立証しようと、治療を始めたばかりなのである。
しかしながら、医師の中にもセルフネグレクトを鬱病の症状と捉えている方もおられるのだ。
なんと心強いことであろうか。まさに希望の一筋の光である。
長い間、自分の中の別人格に守られてきた私。
別人格は私を守ると同時に、セルフネグレクトという最悪な症状をもたらした。
何度も言っているが、セルフネグレクトになってからでは遅いのだ。
今までの医師たちも、私がセルフネグレクトであることを知りながら、「鬱病ではない」という判断で特に治療は施さなかった。
別物などではないのだ。
いつものように「私の場合」と逃げ道を作っておきたいが、今回はしない。
生きるための感覚が麻痺していたセルフネグレクトが、鬱病の精神状態を自覚するのは想像を絶する過酷さである。
しかも、これからまだまだ麻痺していた自分を取り戻し続けねばならない。
正直に言うが、耐えられるかは自信がない。
それは今だけかもしれないし、数時間後には生きる力を取り戻しているかもしれない。
だが、こんな文章を書かせるだけの危機感に覆われて身動きがとれなくなっている。
私にはまだやらなければならないこと、やりがいことがあるのに、鬱の自覚がもたらす絶望感はまがい物の強がりをあっさりと蹴散らしてしまうのだ。
鬱病を患って療養している人々も多いが、患いつつも仕事をしている人々もたくさんいる。
人によって原因や症状に違いがあるといっても、どんなに辛いことだろうか。
私は鬱病治療の入り口付近でもうこの状態である。
抗鬱薬は副作用が先に出て、後から効いてくるものだと知った。
今の私の状態、鬱の自覚に苦しんでいるのも、セルフネグレクトの副作用だと思っておこうか。
原因がわからないからと放置しないでほしい。
家族がいてもだ。
ひとり暮らしの高齢者しか見ていない専門家の人たち、一旦、その概念を改め、視野を広げてみてはいかがだろうか。
「うつ病」と「セルフネグレクト」が似ていて判別しにくいなら、極端だが同一視するくらいに真剣に見てほしい。
乱暴なことを言っているのは承知している。
でも、のんびり調査結果を待っていては救える人たちも救えない。
今、粘土質の泥の中のような鬱の症状でこれを書いている。
決して遺書ではないが、自分が信用ならないので書き綴った。
私はただ、次々とやってくる絶望の自覚を耐えてみせよう。
誰でもいい。
切実に誰かに届いてほしい。
2019年10月28日(同年11月23日加筆)
山姥(やまうば)
消えたもう一人の自分