自己否定の自分を切り離す 解離性障害の私の生きる道
ツイ友で闘病仲間のid:fonttotoさんと話をしていて、今回のテーマを思いついた。
精神疾患者は一般に自己肯定感が低いとされている。
id:fonttotoさんも、そのお1人だ。
だが私の場合、障害者手帳1級の精神疾患者であるにもかかわらず、それがない。
ない、というのは語弊があるかもしれない。
端的に言うと、自己否定の自分が表に出てこないのである。
今回は、解離性障害の私の自己肯定感、自己否定について記録する。
解離性障害について
昨年、自分が解離性障害であることを知る前に書いた解説記事である。
詳細はこちらをご参照いただきたい。
また、こんな記事(記事と言えるのか?)を書いたこともある。
解離性同一症とは昔は「多重人格」と言われていた症状である。
自分に当てはめて考えてみたが、グレイゾーンのまま終わった。
そもそも自覚しにくいものらしいので、自己診断に無理があったのだ。
そこで今回は、自覚のあるもの、意識的にしていることを書き記したい。
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自己否定 守る私と守られる私
小さい頃から、自己肯定感の低い私と、高い私が存在していた。
不思議に思ったことはない。
どうせ自分なんか駄目だ…という私と、何にでも自信満々の私。
自己否定の自分を、表に出していたら危険だと覚ったのは、中1の時。
未遂を起こした。
10代の頃はコントロールがきかず、何度か危ういことになりつつも、しのいでしのいで大人になった。
大人になってから、いろんなことがあり、本当にいろいろあり過ぎて整理が追いつかないので、今回は端折る。
現在では、自己否定の自分も、希死念慮の自分と一緒に飼い慣らすことができている。
飼い慣らすというのは、それぞれを別人格として切り離し、表に出てこないようになだめすかして閉じ込めておくのだ。
主人格(表の人格)には、もう長いこと出てきていない。
こんなことができるようになったのも、毎回修羅場と言っていいほどの、母の看護の途中からだ。
切り離した人格をどんどん手に入れた代わりに、私はその時期の半分以上の記憶をなくした。
解離性健忘である。
それでもそうするしかなかった。
自己否定の自分に主人格を任せていたら、もうとっくに私はこの世にいない。
自分を守るために、自然な心のはたらきが産み出した産物。
たぶん、自覚のない自分もいるだろう。
それでも平気だ。
私は今やっと、自分の足で、自分の人生を歩んでいるのだから。
尚、話の流れで自然に協調路線を張ることになった id:fonttoto さんの、自己否定に関する記事はこちら。
是非、訪問してみていただきたい。
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あとがき
グレイゾーンと言いながらも、私は99%、自分は解離性同一症(解離性同一性障害)だと思っている。
ただ、治療法もない病なので、あまりテーマにすることもない。
今回は特に自己否定を取り上げたが、自己否定の自分を飼い慣らしているからといって、自己肯定感が高いわけでもない。
冷静に的確に自分を評価できていると思う。
基準を外に求めていないからだ。
この表の主人格だけだったら、どんなに楽な人生だったろうか。
考えても仕方のないことが、時々そう思わずにはいられない。
それではまた。
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