毎日見る夢 毎日感じる存在感 最低娘の勝手な願望
タイトルは重そうだけど大層な話ではない。
自分の問題点を、やっと1つばかり見つけただけの話である。
でも、うつ病患者の心の中を見たくない、もしくは影響を受けやすい人にはお勧めしない。
大層な話ではないけど、描写には率直な言葉を使っているためだ。
では、忘れないうちに勢いで記しておくとしよう。
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病になる前の母の夢ばかり見る理由
母が亡くなってから4年になろうとしているが、その後、母の夢を見なかったことはほぼない。
母の夢を見なかった日は何の夢見ていたか憶えているくらい、それは私にとって稀なことだ。
母は声だけで登場する。
階下から私に呼びかけたり、笑い声が聞こえてくるといったもの。
しかも若くて朗らかだった頃の母ばかりだ。
覚醒間際のまどろみの中で、はっきりと母の気配を感じ、そういう時は気分よく目覚める。
なんだ、また夢か…と落胆はするものの、4年近くも経験すれば慣れるものだ。
母も最初はうつ病だった。
薬の副作用で奇行に走るようになった母の夢は、1度か2度、見たかなというくらい。
でも過去の母よりはずっと穏やかで、暴れもしないし危険なこともしない。
おそらく私の願望だ。
きっと元に戻って、朗らかで大きな笑い声を家中に響かせてくれるに違いない。
その思いを支えにして、私は過酷な母の介護をし続けたのだ。
報われなかった。
それを認めたくない。
そんな自分勝手な思いを抱いている私は、現実を冷静に受け入れている私から剥離している。
だから夢の中でそれを現実にしようと必死にもがく。
実際、起きて目を開けるまで、私は階下に3人の気配を感じているのだ。
ブラザーと父、そして優しかった若い頃の母。
毎日、毎日。
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母の介護中の私の心の動き(少し大雑把)
母は真夏に救急車で病院に運ばれてから、一度も家に帰らず、真冬に亡くなった。
あっという間だった。
私が母に会ったのは、「今日が峠」と病院から連絡が来た時と、施設で亡くなる寸前だけ。
どちらも意識不明の状態。
峠は越したものの、病院は遠く、それでもブラザーは毎日会いに行き、それが励みになると言っていた。
どこまでも正反対の私たち。
私が無理してでも母に会いに行かなかったのは、車に乗るとめまいがするという理由だけではない。
怖かったのだ。
退院して母が施設に移ってからも同じ。
施設の駐車場まで連れて行ってもらっても、身体が硬直するほどの恐怖で車を降りることができなかった。
なぜ、怖いのか。
私は自分を冷静に分析できず、母に申し訳ないという気持ちしかなかった。
でも罪悪感とは別のもの。
母が入院して家からいなくなった途端、長きに渡って張り詰めていた神経から緊張感も不安も消え失せ、解放感すら覚えていたのだから。
もう大きな声で呼ばれて、したくないことを命令されることもない。
ブラザーが不在の時に、母に何かを頼まれた認知症初期の父が理解できず、短気を起こして怒ることもない。
母を嫌いでも憎くもないのに、私はほんのひとときの平穏を心地よく感じていたのである。
そのことに罪悪感を覚えなかったことは断言できる。
実は、家での介護の終わり頃、私は母に寄りつかなくなっていた。
毎日ベッドで食べるおにぎりやおかずは用意したが、必ずブラザーか父に持って行ってもらっていた。
自分と、母を守るため。
母は毎日、痛い、しんどいと訴え、父とブラザーがいないと、私が一緒にいるのに「今日はひとりで寂しい」と泣いた。
確かに頼りなかっただろうが、母にとって私は見えない存在になっていたのか。
嫌なことでも顔に出すことなく尽くしても、それだけでは足りなかったということか。
ブラザーは常に母のことしか頭になく、私を健常者の介護要員としか考えていなかった。
気軽に「明日、俺いないけど頼むな」と何度も言われ、その度に私は従うしかない。
何度か自分も精神疾患者なのだと主張したことはあるが、受け答えが正常なためか、彼は深く理解してくれなかった。
そうして母の世話をするうち、どうしたら母を楽に死なせることができるか、本気で考えるようになってしまったのである。
自分だけ消えて楽になってしまおうかと考えることも多かった。
危険だと自分でも思い、なるべく母に近寄らなくなった。
それでも私ひとりで母と父の世話をする日は、月に何度もある。
かなり追い詰められ、そして思い詰めていた。
頭の中にある具体的な方法を、いつ実行してもおかしくない状態になった頃…。
母は40℃以上の熱を出し、意識不明となった。
うろたえるブラザーにどうすればいいか訊かれ、「救急車呼べ」と冷静に返した。
母の「念」にも空恐ろしいものがあったが、私もその血を受け継いだらしい。
そして数日後、母が退院したらどうするかを家族で話し合った。
ブラザーは絶対に在宅介護がしたいと言う。
父は子どもたちに迷惑はかけられない、自分ひとりで介護をするなどと、できもしないことを言い張る。
どちらにしても私の負担は避けられず、「介護はできない」ときっぱり言った。
険悪な空気になり、結論は保留して解散した。
でも主介護者であるブラザーの意見で事は進むだろう。
私は苦痛に包まれた夜を過ごした。
「今日が峠」と連絡が来たのはその明朝である。
またしても私の念か…と思わずにはいられなかった。
親族を呼ぶようにとも言われ、母の弟妹が大集結となったが、持ち直した母は数日後、徐々に意識を取り戻していった。
心療内科等の服用していた薬がすべて抜けて、気分も体調も良好になったと。
ただ、少ししか喋れないし、寝たきり状態は避けられないようだった。
2ヵ月ほど経ち、できる治療はもうないと医師に告げられ、今度は退院の準備である。
ブラザーはケアマネさんと相談し、介護用ベッドのレンタルの段取りまで話を進めていたが、母にはどうしても必要なチューブが付けられており、医師は在宅介護は無理との見解。
急遽、母を受け入れられる施設を探すこととなった。
この時の私の安堵感を想像できるだろうか?
とうに闇落ちした娘の側でなく、専門のスタッフが見守ってくれる施設に入るのである。
私だけでなく、母にとっても安全で安心な選択であることは間違いない。
そして意識のある母と会うことなく、娘は最期にやっと施設へ向かう。
ブラザーが父を迎えに行っていた1時間、2人だけになり、私は自然に大きな声で母を呼んでいた。
廊下にも、隣の部屋にも聞こえるような声だったが、構わずに1時間呼び続けた。
なぜかはわからない。
本能だろうか。
ブラザーに伴われて父も現れ、ほどなくして母は息を引きとった。
ただ眠っているとしか認識できていない父に、母が亡くなったことを説明すると、ヒックヒックと子どものように泣き始めた。
私が最後に泣いたのはまだ20代の頃。
母の最期を目の前にしてすら、涙がこぼれることはなかったのである。
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認める私と認めない私 これは剥離? 認知の歪み?
ほんのちょっとの差で、ギリギリのところで私は大罪を犯さずに済み、そして今も生きている。
とっくに詰んでる底辺で、希死念慮が常に傍らに寄り添っているのを感じながら、まだ生きている。
うつ病といっても十人十色、母と私でさえ違った。
母は初期の頃、「死にたい」と泣きながら何度も言っていたが、私はその一言を一度も口にしたことがない。
理由はわからないが言えないのだ。
今の主治医にも「鬱(うつ)が強い」という表現で伝えている。
ちなみに母の介護で私が1番危うかった頃の医者は、私をうつ病とは認めず、介護をしろと言ってますます私を追い詰めた人物。
高齢者になった母に平気でデパス(エチゾラム)を処方し続けた人物でもある。
恨んでもしょうがないけど恨んでるよ。
母を別人にしてしまったんだから。
デパス自体は合う人には合う薬だから、一概にどうこう言えないけど、向精神薬に指定されてからは高齢者に処方されなくなってきている。
向精神薬に指定されるのが遅過ぎたのだ。
若い頃にデパスを処方され、高齢になってもやめられない依存症患者は多い。
依存性のない薬を探す方が大変だけど、若い人にもデパスの長期服用はお勧めできない。
そういう私は劇薬2種類、向精神薬を2種類処方されて、なんとか今の状態を保っているわけなんだけど。
話を戻そう。
私が受け入れたのは、心身の苦痛から解放された病の母の死であって、私がまた会えると信じていた優しくて朗らかな母の死ではなかったということ。
昨日、そのことにやっと気づいたのだ。
こういうのを認知の歪みっていうの? 違ったらごめんなさいね。
現実では母の死を理解しているのに、どうやら潜在意識では別人と認識しているようなのである。
そうやって自分の心を守りつつ、介護をしていたんだと思う。
全然守れなかったけど。
人の心って面倒くさいね。
「お母さんは亡くなったんだよ。認めないとお母さんが心配して成仏できないかもしれないよ」
となだめる私と、
「お母さん生きてんじゃん。優しく明るく笑う声、毎朝聞いてるくせに」
と子ども染みた主張をする私が共存している。
母は成仏しているだろう。
私なら怨念となって彷徨うことだろうが。
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あとがき
私の場合ではあるが、うつ病患者の心の中、介護などで追い詰められた時の心の動きを思い出せるだけ綴ってみた。
率直過ぎて引かれる人もいるだろうけど、人って追い詰められると周りが真っ暗になるんだよ。
すべての繋がりを断ち切られ、闇の中に閉じこめられるの。
普段見えるものは見えず、聞こえるはずの声も耳に届かない。
暗闇の崖っぷちに立ってる感じで、後は一歩を踏み出すかどうかだけ。
今回の記事、投稿していいもんかと悩んだけど、去年の私なら迷わず投稿してるな~と思ったので投稿した。
記したのは「私の場合」だけど、誰にでも起こり得ることだから。
取り止めがなくて申し訳ない。
それではまた。
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