介護疲れが呼び起こす負の記憶 連鎖
今日は気持ちを持ち直せないままの山姥です。
こんな気分でブログを書くべきではないかもしれませんが、自分を救うために書きます。
亡き母の介護の壮絶さと、徐々に変化する私の気持ちです。
介護について悲観的かつ否定的な内容になりそうですので、読みたくないと感じた人はここでお引き取りいただいた方が無難です。
昨日、一人での父の世話(介護)を終えて、今日はまた体調不良に。
翌日はいつもこうです。
そして今までにない気分の落ち込み……いえ、思い出しました。
母の介護終盤に陥った闇と同じものが、再び私を覆い始めています。
母の介護は突然始まりました。
私は30代半ばで介護の知識はゼロ。
最初は「死にたい…」と泣き続ける母を慰める静かなものでしたが、やがて母は実際に死のうとしたり、大声で泣き叫んだり、暴れたり、物を壊したり割ったり叩いたり……この辺から私の記憶がはっきりしなくなったのです。
本気で死のうとしている人間を止めるには、本気の力を出さなくてはなりません。
刃物を持った手を押さえる、大量に薬を飲もうとするのを止める、走ってくる車に飛び込もうとするのを押さえる、増水した川に飛び込もうとするのを押さえる、火をつけようとするのを押さえる。
更に度は進み、近所のガラス戸を割ろうと杖を持って外に出る、パニック状態で裸で外に出ようとする、「誰かを刺す」と言って刃物を持って出ようとする。
あちらは本気なので物凄い力です。
しかも一度始まってしまうと何時間もその状態が続くのです。
長い時は睡眠を挟んでも収まらず、数日に及んだ修羅場もありました。
刃物はすべて隠すようになりましたが、母の状態が穏やかになると料理をするためにまた戻します。
その繰り返しです。
私の部屋の押し入れにまだ一本隠してありますよ。
新しく買って使うはずだった、まだケースに入ったままの包丁が。
今更使う気にはなれません。
私は時間経過の実感がないので、母が亡くなってから逆算してみたら、少なくとも10年以上はそういった状況の中で生活していたことになりました。
その結果、今の私という存在があります。
「私」の実感もないわけですが。
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初期はほとんど私一人で母の相手をしているようなものでした。
父も兄弟も「うつ」に対する理解がなく、泣く母を私がなだめている間も、普通に晩酌をして酔っています。
私がやらなければ。私が一人でやらなければ。
この思いこそが人生を狂わせた大失敗です。
今だからわかること。
言えること。
それは「介護は一人でやろうとしてはいけない」ということです。
当時はそこまで思い至ることはありませんでした。
それに理解のない家族の態度は、ただ母を苦しめるだけです。
せっかくなだめたのを台無しにされることが続き、我慢ならなくなった私は「うつ」についての情報と対処法をプリントアウトし、それを家族にしっかり読ませて理解させました。
2人とも目から鱗といった感じで、やっと母の状態を知ります。
特に暴れ始めてからは私一人では無理で、男たちの協力無くしては母を止めきれなかったでしょう。
気がつくと、私は家族と一緒に食事ができなくなっていました。
5分もじっとしていられないほど落ち着きがなく、何度も何度も母の様子を見に行きます。
母は穏やかな時は以前のように優しいのですが、突然不安定になり、発作のように何をするかわからないからです。
ずっとビクビクしていました。
小さい頃からビクビクして育ってきましたが、大人になって、もっとビクビクするようになるとは。
母の妹が訪れた時、兄弟にそっと言ったそうです。
「○○(私の名前)、ピリピリしてるな。神経張り詰めてる。大丈夫か?」と。
兄弟はそういう観察眼が鈍く、私もまだ自覚がなかった時期です。
大丈夫じゃないですよ。
でもやるしかないでしょう?
絶対に以前の母に戻る、それだけを信じて生きていました。
優しくて朗らかでお茶目な母に。
責任感が強く、人の悪口も愚痴も言わず、周囲から頼りにされる女性でした。
主婦としても完璧で、料理は美味しいし、家の中はいつでもどこもピッカピカ。
花が好きで、冬以外の玄関周りは季節の花で常に彩られていました。
とにかくよく笑う。
ちょっと大きめの笑い声なので、近所の人に「あなたの笑い声が好き。聞こえてくるとこちらも楽しくなる」と言われるほど。
あの笑い声をまた聞くんだ。
絶対治すんだ。
私の中にはもうそれしかなくなっていたのです。
やがて絶望の時がきました。母は整形外科にも通っていたのですが、医師に告げられたというのです。
「もう良くなることはありません」と。
骨粗しょう症もあり、背骨が自然に骨折して変形してしまい、それが神経に障るため、母は常に苦痛を訴えていました。
体の痛みは一生消えない、死ぬまで酷くなる一方の痛みに耐えなければならないということです。
そして、亡くなるまで、もう母が笑うことはありませんでした。
身体が弱って暴れることがなくなった代わりに、今度はかなりわがままになりました。
何か食べたいと思ったら、「すぐ買ってきて」と頼みます。
本当にすぐでなければなりません。
頼まれた父がトイレに行ってから買いに行こうとすると、「早く!早くっ!」と怒鳴ります。
まだ認知症ではない父、買い物も車の運転もできた頃です。
そして帰ってくるまでイライラしながら待つのです。
たまに買い物を間違えると激怒するか大泣きをし、再び買い物に行かせられていました。
言葉遣いも乱暴になり、人の悪口も言うようになり……もう以前の母には戻れないのだと、私も徐々に絶望にのみ込まれていきました。
それでも亡くなる一年前は、母はまだ家の中を自力で歩けたのです。
ある晩、夜中にトイレに起きた時、自分の部屋でよろけて転んでしまいました。
骨折などはなかったのですが、かなりショックだったようで、歩くことに恐怖を覚えたのでしょう。
部屋から出てこなくなり、食事も毎回お膳で運んであげるようになりました。
そこからの弱り方はあっという間です。
ベッドから出られなくなり、寝たきり状態になった真夏、高熱を出し意識不明となり、救急車で運ばれて入院。
「危険な状態」とのことで親戚を呼ぶように言われ、来てもらいました。
でも数日生死をさまよい、その時は持ち直したのです。
ただし自宅介護は困難な状態。
一度も家に帰ることなく、施設で息を引き取りました。
数か月後の真冬のことでした。
この期間の私の心の動きは、それはそれは醜悪なものです。
今日書こうと思っていたのですが、ちょっと無理なようなので、またいずれ。
ただ言わせてください。
私はやれるだけのこと、そしてそれ以上のことをやり尽くしました。
子の義務だからというのではなく、以前の母にまた会いたい一心でです。
でも絶望を覚えてからは変わってしまいました。
先日も話した「自己犠牲」という発想です。
自分一人でやらなければと思ったのも、母の介護をしたのも自分の意志です。
強烈なセルフネグレクトの自分を生み出したのは自分自身です。
でも原因は自分だけではない……と、育った環境、育てた大人たち、そういった境遇を恨む気持ちも根強く持ち続けています。
抜け出せないのです。
父の認知症、まだ要介護の1番低い段階ですが、母の時の私が戻りつつあるのです。
もういいでしょう?
解放してください。
そう願うことが悪ならば、私が迎える結末は醜悪な内面を具現化したものになります。
きっとニュースになるような。
でも踏ん張って、私はまだここに、この世界に留まります。
こんな胸の内を吐き出させていただいて、少し楽になった気がします。
明日、また私一人で父の世話をする日になりました。
今月はあと2回はあるはずです。
もう、やれることしかやりません。
ニュースにならないためにも。
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同じように介護をされている方の中には、不快に思った方もいらっしゃるでしょう。
でも今日はお詫びは致しません。
これが「私の場合」です。
それではまた。
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